第51回阪神3歳牝馬ステークス優勝 ヤマカツスズランの故郷
岡崎牧場を訪ねて
昭和47年、ロングエースの日本ダービー以来27年ぶりのGI制覇
名門復活!!
  
 第51回阪神3歳牝馬Sは、

 1番人気のヤマカツスズラン(栗東・池添兼雄厩舎、父ジェイドロバリー、母フジノ
 タカコマチ)が、
世界の名手マイケル・キネーンを背に鮮やかな逃げ切り、2着ゲイ
 リーファンキーに2馬身差をつける快勝劇を演じた。

 さらに同馬はJAひだか東主催の「ひだかトレーニングセール1999」出身として初
 のGIホースとなった。
 今回の晴れ舞台、北海道浦河町の岡崎牧場からは
 ヤマカツスズラン、グロウリボン(13着)の生産馬2頭が出走。
 かつて昭和47年日本ダービーのロングエースの故郷として名を轟かせた名門は、
 配合、育成など地道に改革を行ってきた結果、
 ついに3歳女王を送り出したのだ。
 丈夫な馬づくりを目指して蒔いてきた種は、
 ヤマカツスズランという名花を生み、
  27年ぶりのGI級制覇となって見事に花開いた。
 名門復活―――。
  牧場の人々は努力が実った喜びを深くかみしめていた。
  
 
   繁殖牝馬10頭の牧場から、生産馬2頭がG1に出走する。
   毎年9000頭近い馬が生まれる世界で、人はそれを快挙と呼ぶかもしれない。

   阪神3歳牝馬Sのファンファーレが鳴り響く。浦河町・岡崎牧場からはヤマカツスズラン
  とグロウリボンがゲートに収まった。ちなみに2頭が生まれた世代は全部で9頭だった。
   「本当にうちの馬がG1で走っているんだなあ」。スタンドで観戦した岡崎明弘社長は、
  勢いよくゲートを飛び出した2頭を見て心底、思った。
   昭和47年のダービー馬ロングエースの故郷、浦河の老舗と言われてきた牧場だ。昔
  だったら、勝ちに行く熱情に身震いしていたかもしれない。でも、今回のG1は、スタート
  まで辿りつけた結果に感動していた。
   「目が競馬を見ているだけで、気持ちは集中できなかった」と笑うように、道中は逃げる
  ヤマカツスズランを確認しては、馬群のグロウリボンを追っていた。ゴール前、ヤマカツス
  ズランが突き抜けると「がんばれ!がんばれ!」と見知らぬ馬主が思わず振り返るほど
  大声で叫んだ。3歳女王だけでなく、13着に負けた生産馬の分まで声をからしていたの
  だろう。
   「ヤマカツスズランが勝ったんだって本当に思えたのは、グロウが無事にゴール板を過
  ぎていくのを見届けてからです。同じ牧場に生まれて、同じ放牧地で育った2頭が、同じ
  ターフを走る。生産者なら平等に応援してやりたいよね。桜花賞と同じ舞台で、逃げて1
  着になることは大変。ファンの方々の信頼に応えて本命で勝ったヤマカツスズランには敬
  意を表したい。ロングエース以来、27年ぶりのG1を勝てた瞬間は”やったなー”って、自
  分の胸の中で一人、ダービー以上に感無量でした。馬が走らなくて牧場が大変な時期も
  あったし、息子が最後に一生懸命、配合を練った馬があの世代だからね・・・」
   阪神競馬場へは”2人”でやってきた。4年前、28歳で他界した息子の貞弘さんと一緒
  だ。パドックもレースも口取りも写真の中の息子に見せた。”お前が従業員と一緒に、2ヶ
  月もかけて検討した配合がG1馬になったんだよ”。3歳世代の誕生と入れ替わるように、
  逝ってしまった息子。親が死んだ子供にしてやれることは”遺言”を命の形にして、必死に
  守り育てることだった。だから直線で後ろの馬を引き離した時は「天国の息子の魂が馬に
  乗り移ったんじゃないか」と思った。
   ゴール後の栗毛の牝馬は、本当に戦った目をしていた。かつて牧場が乗り越えてきた
  戦闘の日々も胸に去来する。
   浦河町・岡崎牧場は、昭和47年のダービー馬ロングエースの故郷として全国にその名
  を轟かせた。当時のライバルはタイテエム、ランドプリンス。歴史に残る名馬が揃った中で
  の頂点だった。以降もロングエースの半弟ロングファストなど、活躍馬を送り出してきたが、
  昇竜のごとき勢いも徐々に影を潜めた。
   ロングエースを生産した当時、繁殖牝馬は現在と同じ10頭だったが、成績が上がるにつ
  れ頭数を増やしていった。一番多い時には32頭にもなった。そのうち約15頭はダービー
  馬ウインジェストの一族だった。
   「あの時は牧場の面積にあった繁殖数をはるかに超えていたし、血統も偏りすぎていた。
  生産馬の勢いが落ちるにつれて、とにかく元に戻そうと、いい種馬を付けたり必死でした。
  でも、もがけばもがくほどダメだった」
   およそ12年前、栄華を極めた老舗牧場が中央で年間1勝もできなかった時代もあった。
  一生懸命だった分、資金も底をつく。牧場の看板もずしりとのしかかる。
   「お金もない。馬も走らない。僕らはどん底までいった。ロングエースの牧場ってみなさん
  知っているから、無責任に自分の代で潰すなんてできない。歯を食いしばりました」
   もがくのはやめた。辛抱しながら一念発起した。グロウリボンの崎山博樹調教師の協力
  を得て、ニュージーランドの技術者を紹介してもらい、育成に力を入れはじめた。800メー
  トルの馬場は牧場の人間が夜を徹して作った。
   「資金がないから自分たちで山をくずして、真冬の3ヶ月間、夜の10時から朝の5時まで
  土を運んでコースを作りました。従業員はそれから朝、カイバをつけて・・・。安い給料でも
  苦労して本当に一生懸命やってくれた」
   調教コースも完成し、スタッフも育成技術を養い、繁殖牝馬も10頭に戻した。それから資
  金がない分、安い種馬でも配合の相性を重視して丈夫に走る馬を念頭に試行錯誤を繰り
  返した。
   復活へ邁進する最中、今は亡き貞弘さんとともに配合に心血を注ぎ、遺志を受け継いだ
  のが塚田忠博場長だった。「どんなG1でもいいから勝ちたい」。2つ年上の貞弘さんが夢
  を語ると、20代だった場長はこんな風に答えていた。「やっぱりダービーとか天皇賞だよ」
   普段は無口で、仕事一本といった真摯な青年は、”兄貴”を失ってから一度だけ、こうつ
  ぶやいた。「自分がいる時代に、G1と名のつくものなら、なんでも勝ちたい」
   そしてヤマカツスズラン世代が生まれた。3勝を挙げた快速馬フジノタカコマチに、ジェイ
  ドロバリーの中距離で発揮する持続力のあるスピードをプラスアルファの夢にした。
   「ジェイドロバリーとの配合はクラシックディスタンスで走る強い馬って感じで、理由は後
  づけになるけど、当時は思い込みのようにピンときました」。塚田さんは誕生までの11ヶ月、
  父に似て黒光りする牡馬を夢見た。
   そして出産。母体から出た脚は栗毛だが、がっちりしている。”男だ”。そう思って引っ張り
  出した馬は女だった。骨太でごつい。
   「うちにとってはジェイドロバリーは高根の花の種馬だし、距離をこなす薄手の男馬を期待
  していた分、力強いダート体形の牝馬が生まれた時はあれって思ったけど(笑)、珍しいくら
  い、手のかからない利口な馬でした。グロウリボンの方がお転婆娘だった。でも放牧地では、
  ヤマカツスズランの方が上でリボンなんか恐れて近寄れなかったんだけどね」
   ”種馬は負けても、配合と育成でサンデーサイレンスやトニービンのような良血馬に負けな
  い丈夫な馬をつくろう”
   岡崎社長の思いを合言葉に、塚田さんはじめスタッフは馬をじっくり磨いた。ヤマカツスズ
  ラン、グロウリボンの世代から、2歳7月の早い時期にブレーキングを行い、物おじしない精
  神力を養い、毎日、4〜5キロ放牧地や山を人馬で”遠足”して基礎体力を培った。
   そしてトレセン並みと言われる日本屈指のJRAの育成施設BTCへ馬運車で通った。ヤマ
  カツスズランとグロウリボンは同じ車に乗った。
   「利口なつもりで調教に入った」栗毛の牝馬だが、BTCの室内馬場に入ると、自分の影に
  驚いて、調教が思うように進まない。浦河の品評会で優秀馬に選ばれた馬の唯一の挫折。
  5月の3歳トレーニングセールまで僅かのできごとだった。
   「突然、キャンターで止まったり、押しても引いても動かない。でも4月になって、外のコース
  に出たらガラッと変わって、抜群の動きで、スズランについてこれる馬がいなくなった。幅の
  ある重戦車のような体は変わらなくても、スピードが抜けてました」
   そしてひだかトレーニングセールで、200メートル11秒3の好タイムを叩き出した。当初は
  800万円の値段だったが、「1000万円以上の価値がある馬」と岡崎さんは信念を貫いた。
  素質に惚れ込んだ池添兼雄調教師も迷わず1000万円で落札した。
   「3歳のトレーニングセールという明確な目標があったから、馬を仕上げることもできたし、ど
  ん底までいったから、一流種馬じゃなくても配合で負けない馬をつくれることが分かった。どん
  な時でも、いろんな人に支えられ、人の2倍、3倍と努力して種を蒔いてきた結果、ようやくG1
  馬のヤマカツスズランを出せて、はじめてみなさんにお礼がいえます。昨日まで普通の血統
  でもG1を勝てばいい馬と言われるように、日本の名血にするのも丈夫な馬をつくるのも、生
  産者の努力。僕自身、生産という原点に戻れたから、努力が花を咲かせつつあるのかなと思
  います」
   昨年の桜花賞にクリノオードリーが出走して、今年の暮れには3歳女王が生まれた。
   繁殖牝馬10頭の牧場から生産馬2頭がG1に出走、そして1頭が優勝する。
   毎年、9000頭が生まれる馬の世界で、人はそれを奇跡と呼ぶかもしれない。でも本当は
  努力と呼ばれるべきものなのである。
                                             (大塚 美奈)

■週刊Gallop 99年12月19日号より転載■